2017年05月24日(Wed)

5・24労働法制の改悪と共謀罪の創設に反対する連帯集会@日比谷野音

総がかり、平和フォーラム、労働弁護団、エキタス等で構成される実行委による「市民運動×労働組合」の連帯をうたった集会。
集会参加者2500人のこと。野音も閉門にならず。
仕事終わりに集会のほんの最後とデモに参加。
デモには参加せず帰った人も多かった様に見えた。
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デモはエキタスのサウンドカー先導のグループに。緩急のメリハリのきいたコールは気持ちよい。
ただコールの内容は労働問題がメイン。共謀罪についてももっとやって欲しかった。
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参加者のお一方は「2イシューの合同は焦点がぼけた面があったのではないか?労組系の参加者の盛り上がりも足りない気がする。」と話していた。

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2017年05月23日(Tue)

「未来のための公共」主催の共謀罪反対集会@国会前

南庭角で行われました。疲労気味でピンボケ写真多し。すみません。
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全国「九条の会」事務局長・小森陽一東大教授。
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森ゆう子議員。
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藤野保史議員。
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国会前のツイキャス配信を国会まで見る。
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大久保秀俊弁護士。
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福島みずほ議員。
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ゆったりした北庭側で抗議に参加する人々。
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タグ:集会 共謀罪
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2017年05月21日(Sun)

砂川闘争の現地を歩く2017

米軍立川基地全面返還40周年記念
「砂川闘争の現地を歩く2017 土地に杭は打たれても心に杭は打たれない」

先日、タチカワ・パレードに参加した折、デモ前にちょっとだけ行ってみてきた砂川町。
そこで見たチラシで知ったこの企画に参加してきた。

砂川闘争については、こちらの記事に簡潔にまとまっているので読んでみてほしい。
Yahoo!ニュース「砂川闘争の現場を歩く――土地はなぜ返還されたのか」
(ジャーナリスト・高瀬毅/Yahoo!ニュース編集部)

実は自分も、この記事を読んでから現地へ行ってみようと思ったのだ。
記事と重複する記述は、ここではなるべく省略しようと思う。

★★★
立川駅からバスで15分ほど、「砂川四番」停留所で降りると、集合場所の「砂川学習館」はすぐだった。
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砂川学習館は、旧北多摩郡砂川町の役場の跡地に建っている。1955(昭和30)年5月12日、宮崎伝佐衛門町長のもと、町議会は全会一致で基地拡張計画反対を決議した。ただちに10万円の予算がつき、それで有刺鉄線を買い、私有地を囲って立入禁止としたのが砂川闘争の最初の行動だったという。

参加費500円を払い資料をもらう。40名ほどの参加者で集会室は満員。年配者ばかりかと勝手に思っていたが、20〜30代とおぼしき若い人も結構いた。

今日の企画の着目点は、町内各所に残る、当時の調達庁(のち防衛施設庁)が測量用に打ち込んだ杭。それをたどりながら、砂川闘争の歴史を振り返り、現状を見てゆく。
主催の実行委を構成するのは、闘争の歴史を後世に伝え、砂川から平和を発信している「砂川平和ひろば」に関わる方たちだ。
「砂川平和ひろば」

ガイドをつとめてくださった方々。
チャンさん。こちらで大麦を育てながら砂川の歴史を調べている。地下足袋姿がりりしい。
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福島京子さん。砂川平和ひろばの主宰者で、反対同盟行動隊副隊長だった故宮岡政雄氏の次女。
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青木栄司さん。行動隊長だった故青木市五郎氏の孫。
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写真を撮り忘れたが、オオバさんという方もスタッフとして随時説明をしてくださった。

配布された地図
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★★★
最初に訪れたのは、阿豆佐味天神社(あずさみてんじんじゃ)。400年ほど前、砂川新田の開発が始まってしばらくした頃に創建された。
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玉川上水ができると、砂川新田は五日市街道に沿って開発がすすんだ。細長い短冊型の敷地が区分けされ、西から順に一番〜八番の地名がつけられた(幕末にさらに十番まで拡張)。
砂川新田の開発については、武蔵野の歴史について書かれた、こちらのページが詳しい。
「おたまじゃくし」武蔵野の新田開発―砂川新田
ここの記述によると、番とは、年貢徴収の際の区分だったようだ。

闘争の初期は、まさに町ぐるみであったので、集会などにこの神社がよく使われた。56年、測量中断が発表された時は、神楽殿を中心に4000人が喜びを分かち合ったという。
しかしその後、調達局は戸別買収の交渉を始める。条件闘争派(買収に応じた)ができ分断が生まれると、反対同盟は神社を使わせてもらわなくなったという。
宮岡さんらは反発し、正月用の飾りを家で自分で作っていたのを、子供心に覚えていると、福島さん。

1959(昭和34)年建立の殉国慰霊碑。
背面には、珍しく軍人でない一般人も名前が刻まれている。以前は後ろに回って親族などの名前を見ることができたが、今は囲いが作られて入れなくなった。背面上部には靖国神社の元宮司の揮毫による平和への誓いが書かれている。神社庁の締め付けで、それを読めないように囲いを作ったのではないかと、福島さん。
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外の道から撮った写真を加工してゆがみを直してみたら読めたので、下に文字起ししておく。
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第一次世界大戦から第二次世界大戦にわたり、多くの町民が、私たちに別れを告げ、戦場へ赴きましたが、不幸にも、そのうちの少なからぬ方々は、二度と私たちの間(?)へ帰って来ませんでした。ここに私たちは、この方々の名を刻んで、これを久しく後代に伝え、併せて、その霊を慰めようとするものであります。
 もとより、この方々が願ったのは祖国の勝利でありました。しかし、同時に、誰ひとり戦争を好んでいたのではありません。ただ勝利の彼方に、世界の平和と祖国の繁栄とを望みみていたのであります。
 それゆえに、世界の平和と祖国の繁栄とは、さいわいに生き残った私たちにとって、帰らぬ方々から託されたところの遺業であると申さねばなりません。今後、私たちは、誠実な協力を通じて遺業を完成し、これによって犠牲者の霊を慰めて行くことを誓うものであります。

砂川の乾いた土地は桑の生産に適していたため、養蚕が盛んだった。それで末社のひとつに養蚕の神様である蚕影(こかげ)神社がある。蚕を食べてしまうネズミを捕る、ということで猫が守り神。ジャズピアニストの山下洋輔氏が、飼い猫が行方不明になったが、ここに祈願したところ帰ってきたので、「猫返し神社」と名付けた。それから、愛猫家がたくさん来るようになったとか。
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★★★
拡張反対を最初に決心した宮崎伝佐衛門町長宅。
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1955(昭和30)年、町で基地拡張計画が最初に知らされたのは、新町長に当選まもない宮崎氏だった。就任もまだだったが、ただちに住民を集め協議して絶対反対の方針を決めた。彼の決意は固く、収用委員会が下した結果を住民に説明する事を拒否。裁判にかけられたが最高裁まで行って勝訴した。当時はそのような地方自治の権限が認められたのだが、後に法律が変えられて今ではできなくなっている、と福島さん。「みやでん」の愛称で親しまれ尊敬されたが、62年に逝去。葬儀には浅沼稲次郎社会党委員長も参列した。

町長宅敷地の脇にたつ杭。最初に打たれた場所とのこと。当時は木の杭だったのでたちまち住民に抜かれてしまった。今残っているのは後に打ち直した石造りのもの。
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調達局(のちの防衛施設庁)の役人が何十人も警官を引き連れて杭を打ちにくるのを打たせまいと抵抗するのが初期の闘争だった。全国から学生や労働者が応援にかけつけ、学校の講堂や民家に泊まりこんで調達局・警察と対峙したいう。

「条件派」住民が買収に応じ転居していった土地。ここは広く、運動場として活用されているが、狭く活用されずに虫食いのようになっている所もある。「団結いちょう」と名づけられた木が今も立つ。手前のサッカー場の奥に野球場があり、そこが拡張地域の北端。遠景の森のように見えるところが玉川上水。
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各所に残る杭。すっかり地面に埋もれたり、塀の下になっているものも。全ての杭を打たせまいとしたのではなく、測量班のガス抜きとしてあえて打たせたものもあるという。また、買収され立ち退いた隣地との間の杭などは、土地の所有者に判断をまかせたそうだ。
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★★★
最初の集会が開かれた五番組公会堂の跡地。小さな建物が人であふれたという。外には柱が立てられ、消防用の半鐘が吊るされた。測量班の動きがあると、叩いて町内に知らせた。
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畑の中に唯一残る骨格測量杭を見に行く。畑地にはケヤキなどが植えられ日差しや北風のシェルターとなっていた。年月を経て小さなジャングルのようになっている場所を行く参加者たち。
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左の畑の生垣の先に見えるのが杭。右側は買収された空き地。その右に中央南北線の広い道路が走る。
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頻繁にヘリが飛ぶ。自衛隊かと思ったが、帰って写真を元に調べたら警察庁や東京消防庁のものだった。駐屯地は広域防災地区に包括されているので、防災関連の訓練か。
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★★★
団結横丁の入り口。団結小屋が作られ、反対同盟の人が毎日詰めていた。右下のコンクリートは四番組の井戸の跡。番ごとに井戸があったという。農民があれだけ反発したのは、300年もかけ、代々苦労してようやく整えた農地や村を手放してなるか、という強い気持ちがあったのだろう、と青木さん。
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同じ場所から団結横丁を望む。この道のどん詰まりに基地のフェンスがあり、砂川事件の現場となった。右手のマンションの場所には「団結じいさん」と呼ばれた馬場源八氏の住居があった。いつも団結小屋にいた馬場氏は56年測量中止の発表を聞いて亡くなる。遺言どおり拡張予定地内の墓地に埋葬された。
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宮岡家の畑の木陰で福島さんからお父上の思い出を聞く。戦争中は台湾に出征。帰ってくると、空襲で家は焼かれていた。親族は蚕室を改造して住んでいたという。米軍が飛行場を接収すると、まもなく朝鮮戦争が始まり、米軍飛行機が昼夜問わず飛び立っていた。そういった体験から、彼は戦争・戦災の恐ろしさを良く知っており、反戦の気持ちを強くしていたという。拡張計画がはじまり、自分の土地が収容認定されたが、絶対に明け渡さない意思表示としてあえて家を新築したという。

宮岡副行動隊長が守り通した麦畑。この南端の木陰でお昼休憩。すぐ隣の昭和記念公園北通りに面した建物を、福島さんが改装して「砂川平和ひろば」になっている。
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「砂川平和ひろば」に飾られていた宮岡氏の写真を元にした旗や闘争当時の写真。第五機動隊のヘルメットは旧軍のものだろうか。時代を感じさせる。
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★★★
昼食後麦畑の中を行く参加者たち。のんびりした風景だがとても暑い。ケヤキのシェルターが不可欠だった事がよくわかる。
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各所に植えられた花が目を休ませてくれる。
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「団結じいさん」馬場源八氏の眠る墓。団結横丁に面している。
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すぐ隣には、55年、日本山妙法寺の道場が建てられた。庵主が常駐し、反対同盟の前線指揮所・集会所にもなった。僧侶たちはうちわ太鼓を叩き、抗議に加わった。跡地を示す石碑の基壇には、反対同盟の人たちが名前を書き込んだ石が埋められているそうだ。
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こちらは麦畑の中に立つ供養塔、日本山妙法寺の僧侶たちが座り込んだ場所。
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団結横丁に面した馬場家の土地(右側)は青木行動隊長が譲り受けた。滑走路の延長上にあたるため、基地の中の滑走路上にも土地を持つ青木氏は「飛行機を飛ばしたいなら3段とびで飛ばせ」と冗談をいっていたという。56年、青木氏ら基地内の地主たちは返還を求めて裁判を起こす。それに呼応して調達局は基地内の土地の測量を開始。住民、労働者、全学連の学生らの抗議は激しくなり、フェンス際での警察との衝突が相次ぐ。そんな中で57年に起きたのが砂川事件。この写真の先、昭和記念公園北通りに出るあたりが現場。(北通りの位置は当時基地内だった)
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71(昭和46)年に米軍が返還に合意すると、すぐに自衛隊の移駐が決まる。反対同盟はこれにも反対。立川市も自衛隊移駐反対の意見書を決議するが翌年には撤回。条件付容認に後退する。再び拡張計画が生まれることに備え、買収され空き地になっていた場所を自主耕作する運動が行われた。
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自衛隊移駐に反対する反戦旗ポールが立っていた場所。地主の意向で撤去された。
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北通りから自衛隊駐屯地を望む。移駐後、係争中の青木氏らの土地を通る旧米軍滑走路は見捨てられ、西側に新しい滑走路が作られてしまった。C1輸送機などの発着訓練が今も時々行われているそうだ。
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駐屯地境界の電柱。飛行機の発着に支障のないよう、通常より低くなっている。
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★★★
76年に返還された旧基地内の青木さんの土地へ向かう。右側フェンスの向こうが自衛隊。左は国有地で米軍滑走路跡。真ん中の木に覆われた道が青木さんの土地への進入路。通行権のみ認められている。
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進入路はほとんど人通りが無いため、飛んできた種が育ち40年の間に自然にこのような林になった。木を植えたわけではないそうだ。
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境界の支柱も年月を感じさせる。
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現在の土地。一部は自然にできた雑木林、一部にアカシアやモチノキが植えられている。
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防衛施設庁の杭も、ほとんど人が通らない林の中なので風化が少ない。とても新しく見える
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返還直後の青木さんの土地周辺の写真。ちょうど滑走路に横からくさびを打ち込んだ形になっている。進入路も柵で囲われただけだったのがわかる。訴訟は和解だった。条件として舗装をはがし土を盛らせた。滑走路を横切る様に並ぶ杭のようなものは反対同盟が植えた木で、40年を経てこんな大木になった。
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旧米軍滑走路。上の返還当時の写真にも見える白い塗料がかすかに残っている、
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フェンス際まで戻り、ツアーに同行したレイクランド大学のトンプキンス教授から、デニス・バンクス氏についての話を聞く。
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デニス・バンクス氏は当時米兵として横田基地に勤務していたが、56年の10月、立川基地の警備に派遣され、「流血の砂川」と呼ばれた大規模な衝突を目撃する。ネイティブ・アメリカンの彼は、フェンスの外で座り込む、無抵抗の農民、労働者、学生、僧侶たちが警官の暴力にさらされるのを見て、自分の同胞が置かれている立場と同じではないか、「自分は間違った側にいる」と気付く。彼は禁止されていた八王子のメーデーに参加したことで軍を追放され、後にアメリカ・インディアン運動(AIM)の指導者となる。現在も、ダコタ・アクセス・パイプラインに反対する運動などに参加している。

砂川事件のあったあたりを基地内側から望む。倒された旧フェンスは現在のフェンスの外の北通りの向かい側。勘違いしていてピンポイントの現場は撮り逃してしまったが、デニス・バンクス氏が監視に立っていたのは、もしかしたらこのあたりだったかもしれない。
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「砂川平和ひろば」で行程は終了。キンキンに冷えたスポーツドリンクをいただいて生き返った。
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福島さんが最後に、おっしゃっていたことが印象に残った。
立川の米軍基地返還は7人の地主による裁判で実現したが、沖縄はもっとたくさん地主がいるのにとても難しい状況だと。長い間に、地方自治を抑えたり、抵抗をさせない法整備が進んだからだ。
土地返還訴訟を和解で終えたのも、当時はぎりぎりの判断であったが、砂川に特定した判断とされてしまい、沖縄等には波及しない結果になった、と。
米軍立川基地は返還されたが、横田基地への統合であり、横田は拡張されしわ寄せがいってしまっている。
砂川闘争は市民側の輝かしい勝利である反面、引き換えに失ってしまったものもまたあり、未だに問題は解決してはいない、といえよう。

私自身をふりかえってみれば、もういい歳なのに、ここ数年の安倍政権の暴走を見るまで、こういったことにあまり関心を持たずにきた。憲法13条に書かれている「不断の努力」が全く足りなかったと、恥じ入りざるを得ない。

帰りのバス停付近の畑。本当に乾燥した、細かいパサパサの土だった。
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★★★
今回の企画は、自分にとって、とてもよい学習と学習への動機付けの機会となった。実行委のみなさん、ありがとうございました。
このような現地を歩く企画は1年に1度位らしいが、「砂川平和ひろば」には資料が展示され、記録映像の上映会なども時々開かれるようだ。毎日開いているわけではないようだが、サイトでスケジュールを確認し、一度訪れてみてはいかがだろうか。
「砂川平和ひろば」

(作成:2017年6月2日)
タグ:歴史 反戦
posted by tsurudep at 23:59 | Comment(0) | レポート